なぜフリーランスのデザイナーになったかの経緯

 

社会との摩擦やいろいろの理由で
会社にこだわらない生き方を模索している
若い人・若くない人はたくさんいると思う。

僕はフリーランスのグラフィックデザイナーとして
生計を立てている。
(正確に言うと妻の収入に少し足している程度w)

なんでそうなったか経緯を書く。

大学に向いてない

僕の育った家は普通かそれより下の感じ。
とにかく教育にお金をかけない。
子供は雨後のタケノコのように勝手に育つと信じている。
放任が善だと信じている。

父親は仕事メインで基本的に家にいない。
母親は会社勤めの経験がなく、
「教育」や「勉強」や「キャリア」というものを
鑑みたことすらない。

そのせいで(と僕は思っている)
僕は大学名もロクに知らずに大学受験をし、
落ちないだろう大学に何も考えずに入った。

学部学科もラクそうなところを選んだ。
入ったらみんな僕と同じ頭の弱そうな人が多くて安心したwww

しかし実は根本的に違うところがたくさんあった。

 

  • 頭がユルいのは内部進学の人達。

家が裕福で将来に不安なさそう。

  • 他は実は1浪2浪の人達。大学をキャリアの出発点と考えて

人脈作りや資格の調査、就職につながる部活選びに精を出していた。

 

僕の家は貧乏。
僕は将来のことを考えていなかった。
漠然と会社に入って出世すると思っていた。
そこそこの対人恐怖があり、大学ではずっとひとりぼっち。
そして大学に行くことも週に1,2回になった。
そのままひとりぼっちで卒業した。

奨学金なりなんなりで無理矢理行ったのに
「大学の価値」はまったく享受できなかった。
人生にとっては重要な期間なので、行ったほうがいいと思うが。

 

就職活動に向いてない

大学3年生になると、大学から就職活動をせいと言われる。
そういうもんかと思う。

もちろんせっせと準備して就職活動をする。
しかしもちろんうまくいかない。

 

  • 志望動機とか自己PRとかが書けない。

そもそも志望してないし、PRするところもない。
なんとなく生きて、ひとりで他人と接触せず大学生活を送ったので
志望動機や自己PRの「雰囲気」がわからない。
例文なんか見ると、別の世界の言葉に見える。
だいたいよく読むとほとんど意味がない文ばかり。
企業はこれを見て何を審査するのか?
日本の採用習慣をまったく知らなかった僕にとって
無意味な文を無意味に量産する無意味な儀式に思えた。

確かに何の技能もない新卒を採用するなら
この作文の重要性が今ならわかるが、
当時はただひたすらな苦行だった。
なんせアピールするところもない。
企業がどんなところか知らない。
興味もないし、そもそも仕事したくない。

ちなみに今でも「普通の就活システム」はクソだと思っている。

 

  • やっぱり対人恐怖

これは個人的問題としてなんとも仕様がないが、
就活となると果てしなく緊張してしまう。
毎回の外出でエネルギーを使い果たし、
面接に行くころには玄関で座り込んで
いわゆる「ぶっち」(連絡無しドタキャン)を連発した。

周りが普通にこなしているように見える中で、
自分だけ普通ができない、就職できない気がして
精神的にそこそこ追いつめられた。

おかげさまで行った面接は数回。
どれも落ちてめでたく無い内定卒業です。

 


思いつきでデザインの世界へ

就職活動でこてんぱんにやられて
だらだらと寝て過ごしていた4年生の3月。

女性もそうかもしれないけど
自分が働けない人間だとわかった男はつらい。
世間は男に仕事と収入を求めているから。

気持ちはどん底、お酒で知らんぷりする毎日。

今となってはそれは実際は思い込みだと思っている。
自分でより良い生活の仕方ができるなら、「普通」には働かなくていい、
と今では思っている。(難しいけど)
しかし「普通」の価値観にどっぷりつかっている当時は
精神がどんぞこ。

なにかはしなくてはいけないと
専門か大学院に行くかと思いつく。

借金でもなんでもいいので
働ける糸口を見つけたいと思っていた。

そこで天から謎のワードが降ってきた。
「デザイン」

僕は絵もデザインも縁のない人生だった。
なんの情熱も無く思いつきでデザインの専門学校へ入学した。

たぶん、就職活動の「自己PR」にほとほと嫌気がさし、
自分のポートフォリオで就職活動ができる職業なら
なんでもよかったと思う。

入学したらひととおりの授業を受けて普通に卒業した。

学校でデザインなんて学べないとか聞くが、
やはり先生と自分の熱意によると思う。

現実問題として一番重要なのは
デザイン事務所に履歴書を送る口実ができるということだ。
学ぶデザインの善し悪しは、働かないとわからない。

そして普通に卒業とか書いたけど
もちろん就職活動をしてなかった。

卒業してから
だらだらとネットで求人見て
小さなデザイン事務所に拾ってもらった。

この業界は死ぬほど薄給だが、
その労働環境の悪さのために、慢性的な人手不足なのだ。

入るのは難しいことじゃなかった。


会社勤めに向いてない

そんなに多くの事務所を見たわけではないけど
デザイン事務所の典型的なパターンがある。

狭い部屋で数人で静かに黙々と作業して
1日に5回は偉い人の怒声が飛び
作業は深夜に及び、たまに朝まで。

現場にいるとすごいプレッシャーを感じた。
まったく無理だと思った。

  • 毎朝起きるのが無理
  • 狭い部屋に他人と長時間缶詰が無理
  • 怒声とかホント無理
  • 企業論というのか精神論も無理
  • 全員気が合わなくて無理

自分で作ったわけでもない
ポートフォリオを携えて数回転職し、
合計しても数年足らずで再就職のこころは折れた。

ネットでは毎日フリーランス事情を検索したが、
この業界はやはり実績がすべてなので
ポートフォリオさえ作ればなんとかなるのでは、と考えた。

生活費の不安はあったけど
極貧なら1年くらいなんとかなりそうだったので、
とりあえずフリーランスとしてやってみるかと思った。
ダメならバイトでもなんでもすればいいと。

 

そしてフリーランスに落ちた

実感としては、他にできることがなく
家で精神療養しながら内職している気分。

ネットにあるデザイナー関連の募集に応募して
在宅でわずかな小銭を稼いでいる。

最初は生活費のために派遣もした。
派遣でいろんな企業行けば、
いろんなデザイン学べてポートフォリオ増えるじゃん!と思ったし、
それはとってもいいアイデアだと思ったけど、
半年ほど経ったときフリーランス収入が「月に数万程度」になったので
派遣は結局数回しかやらなかった。

その後は特に進展もない。
ちっちゃな仕事を積み重ねて徹夜で小銭を稼いでいる。

僕のように計画性なくフリーランスになれば
いきなり目先のお金に困るので、
きっといろいろもがくハメになる。

もがけば月数万程度ならなんとかなるものだ。
自分に出来る事、出来ない事の程度で
事情は変わると思うけど。

こんな人間でも
もう少しまともな収入になるように
これからも休みながらもがいてみるつもりです。

 

 

 

経緯は以上。

 

詩人と名乗ることにした。なぜか古文漢文必要か問題に触れてしまった。

詩人。

 

直接見た事はなく、また

「この人詩人やなぁ〜」と思ったこともない。

たいして読んだこともない。

 

しかし名乗るのは自由である。

 

昔アルバイトで学校で使う教科書の校正を手伝ったことがあった。

もちろん中身も読む。

 

俳句に詳しそうなオバチャンが

俳句について、説明しているページがあった。

 

自分の少女時代のみずみずしい体験を

とてもみずみずしく素晴らしく表現した短歌が書いてあった。

 

(さきほど俳句といったが短歌と区別がついてない私)

 

「正直なところ、自分の少女時代に酔い過ぎ」というのが

当時23歳の私の感想であった。

気持ち悪いと思った。

 

しかし何時間も校正して

単純な文字列を相手に、頭がボーっとした中で、

その短歌の情景が心に沁み入ったのは間違いなかった。

 

朝日だか空の青さだかが

少女に新鮮な世界を味合わせるような内容だった(気がする)が、

シンプルにわかった。

共感した。

内容は覚えてないが、その体験は覚えている。

 

国語の教科書の校正はそういう意味でとても

私の人生に影響を与えた。今も。

 

 

教科書でおぼえた名詩 (文春文庫PLUS)

教科書でおぼえた名詩 (文春文庫PLUS)

 

 

 

オバチャンの短歌だけでなく、

中村草田男

「万緑の中や 吾子の歯 生え初むる」

という俳句は衝撃だった。

 

 

俳句と人生―講演集

俳句と人生―講演集

 

 

 

これを見てなんとも思わない中学生もあなたも

何人かはきっと人生のどこかで思い出す。

忘れても、同じ感動をどこかで味わう。

 

 

人のこころは一定じゃない。

言葉も、波長が合うときと合わないときがある。

 

目にした言葉と波長が合ったときの

あの「わかる」感じはとても強い感情を引き起こす。

 

詩の数々はほとんど合わない。

でも自分に合うものに出会うタイミングがある。

 

 

昔、にちゃんねるというサイトで

「五七五で素敵なことを言うと、誰かが最低な七七を返す」という

短歌遊びをしている掲示板があった。

とても面白かった。

 

例えば

誰かがこう書き込む。

「バレンタイン あの人思い チョコ作る」

 

すると誰かがこう返す。

「うんこに見えて 自分で完食」

 

例えがひどいが、

こんな感じで知的でユーモアのある世界が広がっていた。

詩的遊びは人間の根源的な活動のひとつだと思った。

日本人の場合は短歌形式がやはり性に合うのだろうと。

 

 

五七五が面白い!

五七五が面白い!

 

 

 

 

僕は詩と言えば、

CHAGE&ASKAとして有名な(別の事件でも有名な)

ASKA氏の歌の歌詞が好きである。

 

彼の詩はほとんどすべて少年の詩であると思う。

少年という言葉がしっくりくるが、

それは不安定な人間の精神のルーツになる部分だと思う。

男女に関わらず。

 

誰もが揺り動く自分のこころと折り合いをつけて生きている。

そのあたりに差す木漏れ日のごとく、

彼の詩は誰にでも共感できる優しさや弱さが

とても美しく並べられていると思う。

曲に完璧に合致しているのも素晴らしい。

 

 

VERY BEST ROLL OVER 20TH

VERY BEST ROLL OVER 20TH

 

 

 

 

つまるところ

人生は文学的なところがある。

精神が文学的なのか、はたまた文学が精神の化身なのかわからないが、

人が生きるのに最低限必要なのは生産ではなく、

こころのリズムである。

 

古文漢文が義務教育に必須かという議論がある。

センター試験に必要かは私にはわからない。

人は生産せずとも生きて行けるが、

【生きて悩んで死ぬ】のは避けられない。

人は常に【生きられてしまっている】。

 

これは精神そのものの問題である。

我々がどこから来てどこへ行くのかという問題は

生命活動そのものである。

 

日本の地に生まれ、日本の文化で育った人は、

生きている以上、必ずその文化的ルーツが自分の問題になる。

 

ということで個人的には、

古文漢文は日本での教育にとって

【人が生きて行くのに最低限必要な教育】のうちに入ると思う。

 

他の教育事項と比べての優先具合はわからない。

(理学的学問も人間の情緒と無関係ではないと思っている)

 

詩の話がしたかったのに、

いつの間にか古文漢文の個人的意見になってしまった。

 

詩についてはまた今後何度か書くことにする。

かしこ

 

 

だれでも詩人になれる本 (あなたも詩人)

だれでも詩人になれる本 (あなたも詩人)

 

 

ABC予想で話題になった数学者の方のブログに非常に興味をそそられた話

 

下記のブログが非常に興味深い。

第68回NHK紅白歌合戦の感想と、数学(あるいは一生の「認識状態歴」の可能性(!))の有限性 | 新一の「心の一票」 - 楽天ブログ

 

私が常々ぼんやりと考えていたことと

似たことが書かれている気がする。

 

上記ブログ記事の「まず、話はがらっと変わりますが」以降の文である。

 

つまり、「数学」を完全に記録し、伝達するには論文(=PDFファイル)だけでは不十分であり、どこかに

     「抜け落ちている情報」が
       あるのではないか、

と強く感じております。

 

 とある。

 

そしてブログ主はその抜け落ちている情報が忠実に表現されている可能性があるように感じる別系統の媒体として、アイドルの歌や芸術をあげている点が非常に興味深い。

 

もちろん難しいことはわからないが、

私が昔考えていた

  • 「学問より、随筆のほうが真実を書けるのではないか?」
  • 「芸術は学問が記述出来ないものを表現できているのではないか?」
  • 「あらゆる学問を突き詰めると精神の問題なのではないか?」

といったような問題と似た問題意識なのではないかと思うのだ。

数学者の岡潔が言っていた「数学は情緒の学問」といった発言とも近しいところだと思う。

 

 

 

私の考えについて話すと、

これらはその言葉通りに科学の記述可能性についてを話題にしたいのではないと思う。

 

これらの問題意識が表れるのはひとつの直感をびんびんに感じているからであって、

その直感というのは「宇宙の摂理と精神の関係」についてである。

 

宇宙が解明の魅力的な対象であるのと全く同様に精神も解明対象であって、

芸術にはそれがうまく統合・説明されているフシを感じるのである。

 

直感である。

しかし多くの学者や芸術家が共有していて、歴史上何度も出てくる

非常に重要なインスピレーションである。

 

このあたりの議論が進めば、あらゆる学問がスムーズに横につながる可能性を感じる。

(理と文とか、物理と哲学とか、仲悪そうというのは気のせいでしょうか。本来相容れないものではない、というのは共通理解があるようですが)

 

精神の問題は、数学や物理では扱えないのではなく、まだその域に達していないだけと見える。

上記の直感に関する問題の解明が進めば、ついにその域に達するのではないかと思うのである。

 

 

芸術家が常に問題にしてきたことでもあるし、誰もが日常で経験しているありふれたことかもしれない。

 

それは宇宙の摂理の一部か全部であって、

それの解明はあらゆる学問の向かう先であるし、

また我々自身の生命活動の根本的な話題なのではないかという気がしているのである。

 

ヘーゲルか誰かが言っていた

「あらゆる学問の究極的問題は精神がどこから来てどこへ行くのかという点である」(うろ覚え)という話題に直結している。

 

もれなくデザインも、宇宙の謎に挑戦する作業なのである。

しかし自分のこの話題の説明の拙さを見るに、まったくうまく捉えられていない。

もう少しお勉強が必要である。

本当はもっと書きたいことがたくさんあったはずなのだ。

 

上記ブログ主の研究しているという

宇宙際タイヒミューラー理論」は、このあたりの進歩になると感じる。

私がそれを理解する日は来ないだろうが、人類のより良い発展のために密かに応援しているのである。

忘れ得ぬ「濡れ女子」

昔高校生のころ、ひどく真面目そうで僕に比べたらよほど人間のしっかりしたような同級生とふとしたきっかけで横に並んで歩いていたところ、小雨に降られてついには前を歩いていた制服姿の女子もみんな濡れているという状況になり、それまでB級映画への周りの不理解を淡々と嘆いていたその男が「濡れ女子」という語を不意に発し、たちまちその女子の魅力なのか自身の性癖なのかどこへとも着地しない話を熱っぽく語りはじめ、あまり人間が変わったようになったから僕はこころの中で「この人も自分で制御を忘れるほどの感性の振れ幅を持っているのだな」としきりに感心して、彼の熱弁を話半分に聞きながらただつらつら歩いていたのだが、彼はその熱情のために部活動の後輩の女子から少し蔑まれるような目で見られているという告白をはじめ、この漏れ出るようなむさ苦しさではさもありなんと思っていたが、何かにいたく感動してふりみだす気持ちの敏感なところが、自分以外の人間にもあるのだなと妙に感慨を覚えた出来事だっぷん。

デザインの勉強って?

私のすべての記事に言えることだが、

今回もまた読むに値しない。

 

私は紙もののグラフィックデザイナーという先のない仕事をしている。

 

デザインとは何か、というところを問うていけば、先のないなんてことは決してないのだが、そういったこととは無関係に現実にある仕事の単価は下がる一方、自分が年老いてなお仕事をもらえるかというと希望は薄い、そういう意味で暗い職業である。

 

これからデザイナーを目指す若い諸君に言うことはない。

人というのは、自分よりも後から来た者に対して説教を垂れたい性質があるらしく、3歳の親戚の子が、うちの息子2歳に対してあれこれ指示を出しては「あーだめだめ〜、ここは走っちゃだめだよ〜」とお兄さんな自分を親にアピールするが如く、ネット上も現実社会にも新参に対してのありがた迷惑なアドバイスが満ちている。それらを参照されたし。

 

私は仕事に誇りを持ってなどいないが、しかし作るからには良いもので満足してもらいたいのが人の心の常である。

 

そこで日々デザインというものと格闘しているのだが、さらなるステップアッピングを目指して、デザインの勉強をしたい。

 

どうするか?

 

それが問題である。

 

過去の私は、デザインを勉強しようとして、最初は哲学に走った。

デザインを知るには人間や自然の理解が必要だと踏んだのである。しかし、この世界というのは、あれを理解して、これに活かすというようにわかりやすくは出来ていない。哲学を含め学問は知識ではなく営みである。知ってどうという話ではない。無論、デザインも宇宙の仕組みのひとつであって、哲学が非常に重要なことは変わりないが、とにかくデザインスキルに対する即効性はなにひとつない。

 

 

人に聞いてよく言われるのは、一流のデザインを見て、一流の感性を養うというものである。

 

この物言いがとても胡散臭くて嫌いだが、一理はあるだろう。課題に対して他人がどういう解を示したか。この事例を自分のなかに溜め込んでいくことは、これからの作業をより深化させるであろう。特に初学者においては、モノマネレベルでもそれなりの形がつくれるようになるかもしれない。お得である。

 

しかしやはりデザインにはいろんな側面があり、他人の作った完成品ばかり見ていてもしょうがないのである。

 

例えば最近旅行関係の書籍をデザインして気付いたことがある。

私は旅行本を読みながら、ワクワクして旅の工程を夢想したり、注意点を読み込むというような経験がない。そんな人間が旅行本のデザインができるのだろうか?デザインに向き合えているのだろうか、と。

 

無論、旅はする。旅の情報も集める。旅程を楽しもうとする。最低限、旅行本に相対する資格はあると信じたい。

 

やはり豊かなデザインの源泉は生活なのである。

アメリカのデザイン思想の影響が強い日本においては、ことさらマーケティングや商業的付加価値としてのデザインが強調され、デザイナー自身も商業の中にデザインを置いていることが多い。が、根源的にはデザインは人と外界との化学反応であり、生活そのものの創造性ではないのか。

 

もちろんこれに対して今後も格闘していくのだが、仮にそうだとして、デザイナーはどうすべきかというと、やはり先人達の残した仕事を足がかりに、生活を真摯に見つめるしかないだろう。試行錯誤によって良い解決を探ることになる。

 

で、どうしよう。

 

それはそうと、飛行機はかっこええなあ

 

 

747 ジャンボ物語 (キャンブックス)

747 ジャンボ物語 (キャンブックス)

 

 

意外にも自営業開業1年でクレジットカードの発行ができて少し嬉しい

私は個人事業主である。

開業1年ちょっとである。

 

最近MacbookProを買ったときは、12ヶ月無料の割賦払いは断られた私だが(わかってはいたが少し落ち込んだ)、意外にもクレジットカードの新たな発行ができた。

 

簡潔に述べるとこうだ。

 

私はもともと銀行発行のクレジットカードを使用してきた。たまたま新たに発行しようとしたカードが同じ銀行の管轄(?)であったために、きっと私の情報を持っていて、それを参照してGOサインが出たに違いない。

 

今回クレジットカードが必要になったのは単純に、交通系ICカードオートチャージがしたかっただけである。

 

なにせ現金で切符を買って領収書を発行するのは面倒である。

交通系ICカードの一部は履歴を発行することができるし、オートチャージにしておけば、これは画期的な楽チンさを手に入れられると踏んだのである。

 

他に、単純な方法としてはmobile SuicaApple Payという手段があるが、残念ながら私が使っているiPhone5sは現役バリバリで快適そのもの、見た目は汚らしいがなんら問題はなく、そしてApplePayに対応していない。

 

しかしそれらスマートフォン決済以外の選択肢では、オートチャージをしようとすると、特定のクレジットカードが必要になり、その仕組みは煩雑である。

 

詳しい事はわからないが、クレジットカードの手数料が関係していて、提携カード以外は使わせたくないのだろうか。

 

ユーザーにとっては非常に不便と言うほかない。

 

こういった状況というのは現状に至る経済的なチカラというものの結果であると思う。例えば中国など諸外国では電子決済がお盛んらしいが、それはやはり紙幣の信用と無関係ではないだろう。つまり、手数料を払っても、現金を扱うリスクより安いというものだ。日本においては偽札の心配がほとんどない上に、現金崇拝の強いお国柄である。企業にとって手数料のかかるクレジットカードの導入のインセンティブが働かないのであろう。知らないけど。

 

この現金信仰は、なんだろうか。やはりなにか歴史的理屈があるだろうが今のところ調べてすらいない。みんな江戸っこなのだろうか。

 

現実的な支払いの運用を考えると、クレジットカード使用のメリットは、現金をはるかに上回る。

 

ポイントによる実質的な値引き、紛失悪用時の保険、海外旅行保険、至便な支払い、履歴が残る、携行の手軽さ、その他の特典や提携企業の割引等である。

現金はこれらが無い上に、紛失したら終わりである。

 

しかし人はいつも合理的なわけではないし、合理性がすべての基準であるべきでもない。

特に他人の信仰に関しては、なにも言うつもりはない。

 

ただ、日本における電子決済がさらに普及すると、自分が楽になる、というだけの願望である。

 

話は変わるが、

はるかな昔、バイトをはじめたの姉が、時給が10円あがったとかで、10円のありがたみについて力説していたが、私にとっては10円は10円である。時給であれば、時給の10円である。10円のありがたみとはなんであろうか。彼女の話からは何も知ることはできなかった。これもよくある信仰のひとつだろう。理解できなかったのは私の知力の無さもあるが、おそらく具体的な理由はない単なる嬉しい気持ちと、バイトを始め自分が大人になった錯覚からくる満足した気持ちであるからだと思う。時給を10円あげて、さらに身を粉にして働く高校生を雇えるとは、店長もさぞかし喜んだだろう。

 

金銭とは何か。日常生活が金銭によって運営される限り、これは重要な問いでる。例えばサラリーマンは時給によって給与が支払われるので、金銭=時間と言えるだろう。時間とは人にとっては人生であり、宇宙である。つまり金銭=人生と言うこともできるだろう(?)。

 

さらに脱線すると、最近買ったmacbookproには大変満足している。touchbar無しモデルのintel core i5 2.0GHzメモリ16GBのSSD512GB約20万円である。この値段は私にとっては鈍器のようなものであって、非常に躊躇したが自分をごまかして買った。このSSDの効果なのか、indesignが2秒で立ち上がる。すこぶる快適である。CPUのスペック的にははるかに上のiMac27inchを前に、なぜかこのmacbookproで仕事をしてしまうガキンチョ魂を発揮している。画面はもちろん小さいので不便であるのに!

 

しかし私が従事する紙のデザインの仕事ではまだまだAdobe CS3〜6は現役であり、必須である。Sierraでは無理矢理動かすことはできるが一部どうしても不安定になる。私の場合はindesignCS6が起動してすぐ落ちるという現象に悩まされた。いくつか試した結果、どこかの検索結果にあったJavaをインストールする、ということで一応は使えるようになった(セキュリティ的に推奨しないとの文言もあり、よくわからないので不安)。そして、フォントを選択しようとするとすぐ落ちてしまう(使えると言っていいのか)。なんとか改善できるとよいのだが。

 

なんの話だったか。

 

とにかく私は来週から、チャージレスの快適改札生活を送るのだ。

 

ほとんど外出の機会がないのが悔しいくらいだ

 

 

改札の向こうに待つ者・・・

改札の向こうに待つ者・・・

 

 

髪のからまらない安くて有用で美しくメンテナンスが気持ちの良い掃除機はありますか

髪の毛を吸う前提の掃除機の先端には、なぜ髪がからまるローラーがあるのか?なぜそこの髪の毛をとるのが簡単ではないのか?汚れやすい掃除機の掃除はなぜ手軽でないのか?

水回りで使う前提の商品(風呂の椅子や浴槽の蓋など)は、なぜわざわざ凹凸をたくさんもち、カビやすく、また掃除しにくく作ってあるのか?

 

これらの製品を売っている人間は、自分で使ったことがあるのか。妙に心が悪く燃えているときなどは以上の様なことを考えてしまうときがある。もしかしたらもっとお金を出せば、それらが解決された、あるいは日常使用においてより気持ちのいい使用ができる商品もあるのかもしれない。私には無縁のお金である。

 

だが制作サイドだけの問題ではない。並んでいる商品の質が全体的に低い場合、大衆がそれに対してあまり情熱を持っていないことを示している。例えば日本において、諸外国に比べて全体的な質の高いものと言えばいくつか頭に浮かぶだろうか。

 

食品などは、おいしいかどうかもあるかもしれないが、その安全性に関してはレベルが高いのではないだろうか(海外のことは知らないが)。組版や治安、人的サービス、電化製品の精度、アニメやフィギュアなどが思いつくが、おそらく日本のレベルは高いだろう。我が愛しの盆栽などは言うに及ばずである。

 

これらは日本人の多くが関心を持ち、細やかな品評を行い、厳しい選定を行なうからこそのレベルの高さだろう。(しかしそれらがすべての面において優れているわけではなく、家電やスマホガラパゴス化が代表しているように、真に消費者を満足させる面が優れている場合はむしろ少なく、商品の限られた一面ばかりがやけに優れているということも多分にある。食品も人的サービスについても、消費者満足を真摯に捉えているかと言うと怪しいものも少なくない)

 

つまるところ人々が需要し、より情熱を持って愛用するものほど、レベルは高くなり、また値段についてもバラエティがでて、そしてより速く進化していくのである。であれば、より消費者満足の高い製品も安価になるのである。その人々の嗜好を操作することは誰にもできない。まさに神のみぞ知るのである。私がどれだけリーズナブルな家電に文句をつけたところで、製品が変わっていくことはない。

 

「街の景観は、その住民の審美眼を表している」(うろ覚え)と言ったのは谷口吉郎である。

 

大衆の性質がそのままあらゆる現状を形作っていると言っていいだろう。個人的見解としては、日本人には(私の言う「日本人は」「日本は」とは「海外は知らないが少なくとも日本は」という意味である)美に対する価値付けと日常風景への情熱が足りない。

 

人生は日常である。日常以外に幸せはないと言ってよい。その日常を支える家事は生きる喜びのひとつである。道具は人格の担い手のひとつである。家電や日用品のある部屋は、人生の景色であり、その使用は人生の活動であり、次世代育成環境である。次世代が見たいのは仕事で輝く親ばかりではなく、ごく基本的日常生活をエンジョイする姿も同様なのではないだろうか。日用品は生活を彩っているか、進んでメンテナンスしたいと思えるか、やりやすく喜びを伴うか、それへの支出に満足出来るか、それらをたまに振り返るような大衆でもよいではないか。

 

ちなみに私は妻に任せっきりで家事掃除はしない。(本当は炊飯と風呂掃除と洗濯とたまに掃除機をかける程度はする)

 

以上長々と書いたのははただの愚痴である(掃除機の髪のからまりに対する)。

 

この1年は米を洗いながら、その洗い方について考察している。それについてもいずれここに書き記そうと思う。無論まったく有用な話ではない。

 

 

 

DNAのらせんはなぜ絡まらないのか

DNAのらせんはなぜ絡まらないのか