日本の映画ポスターはなぜダサイ問題私見

日本の映画ポスターはなぜダサイ。

 

こんな話題を見つけた。

 

映画ポスターに限らず、商品パッケージでも、町並みでも、日本のものはゴチャゴチャとしてダサイのではないか?という疑問は、案外ほとんどの日本人が持ったことがあるのではないだろうか。(が、今回は映画ポスター以外には触れない。)

 

さらっとネット上を見てみると以下のような意見が見られた。

 

ダサイと売れる

・非映画ファンにアピールすると情報量とアオリが増えダサくなる

・ファン以外へのアピールが必須

・格好良さよりわかりやすさ

 

日本の広告の習性

・もともと日本はデザイン性よりも文字情報重視

・説明過剰のほうが効果的とされている

 

カッコイイ文化がない

・カッコイイを評価できる人間が社内・世間にいない

 

特定企業(人物)のせい

電通がダサイ

・偉いひとがダサイ

・ダサイひとの許可が必要な組織体制

・消費者のセンスを低く見積もっている

 

国民性

・日本人がダサイ

・日本人は感性が鈍い

・日本人は立体的な構図を好まない

・日本人は顔が正面に見えないと不安になる

・日本人はわかりやすいほうが安心する

・日本人はゴチャゴチャが好き

 

映画文化の違い

・映画の身近さの違い

・普段から映画の情報に触れる機会の多寡

・ライフスタイルのなかの映画の位置の違い

・映画ファンの人口が少ない

・高価なので、より詳しく知ってからでないと見ない

・よく知り安心しないと見ない

・海外では、広告がターゲット層以外に届かなくても別に構わない

 

 

などなど。

個々の意見がまったくの無関係ではなく、それぞれ妙につながっていて、確かにややこしい。

 

海外でかっこよく、日本でダサイポスターの作品事例を見つけて、その作品のポスターが作られる背景(海外と日本の違い)を丁寧に追っていけば、より説得力のある仮説にたどり着けるだろうし、またそもそも日本のポスターがダサイのかを論ずることも有意義かもしれない。

 

僕はもちろんそんなことしないが、ひとつ個人的に気になるのは、このポスターダサイ問題の、問題とされる点が実際には2つあるように見えるところだ。

 

ひとつはもちろん、「日本だけダサイ」

 

さらに、ダサイを細かく見ると

・文字が多い

・キャッチコピーの内容がダサイ

・構図がありきたり

・色、人物など様々な形態において情報量が多い

などがある。

 

これはどういうことかというと、消費者に価値があろうと思われる情報を列挙している。「無添加、地域限定、栄養豊富」と同じである。そのために、何が失われているかというと、例えばその作品のもつ世界観や雰囲気、精神性(映画は本来これを楽しむものかもしれない)、つまり作品性を犠牲にして、広告情報が書き込まれているということである。

 

もうひとつは、

「広告で予期される内容と、実際の内容が違う」という点である。

 

内容いかんに関わらず、より大衆受けしそうな顔にして売り出す、ジャンルさえ飛び越えて見せる、得られる感動を先に書いておきながら実際は違う、などなど。これは方々から批判を浴びるのは当然であろう。

 

以上のように、僕がネットを見て感じたポスターダサイ問題における、一番の問題ポイントは「作品の軽視」である。

 

ちなみに僕は映画をあんまり見ないし、そもそも映画ポスターが貼られている現場を見たことがない(気付いたことがない?)。しかしああいう文字でひたすら煽るタイプの広告は非常に不快になるので、どちらかといえば僕は「日本のポスターはダサイから改めろ派」と言えるかもしれない。(公共の場は広告含め美しくあってほしい)

 

個人的には、ポスターもパッケージも、映画という作品の一部であるという観点のもと作られ、広告含めた関連グッズのすべてが映画製作者の描いた作品の理念に基づいて設計されることが、合理的であるように見える。その合理性に従えば、大衆向け映画は現状のママが合理的かもしれない。そもそも良い映画というのはすべてがすべて大衆受けするものではない。

 

また、作品軽視の広告で客が釣れたとしても、映画業界の衰退を招くだろう。

 

しかし、軽視している主体は誰かというと実は大衆なのである。

 

映画カルチャーを引っ張る層と、映画業界を金銭的に支える層が同一であれば、こういった問題は起きたか。仮に起きなかったと考えると、日本における年齢と所得の偏り方、あるいは長時間労働に起因しているのかもしれない。

 

 

旭酒造 獺祭 (だっさい) 純米大吟醸 磨き50 720ml