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腰巻きビル雑感。

「腰巻きビル」という言葉をはじめて知った。

これに関してネット上ではいろいろな意見が紛糾しているようである。

 

街の景観については美しくあるべきである。

それは人間生活の豊かさに直結している。

日本では代々「家の外」たる「公」について、個々人が労力や資財を投入して美化・補修・維持をしようとする意識はほとんど持ち合わせてこなかった。これは個人的な肌感覚での感想であるが、おそらく多くの人が認めるところであると思う。

 

ヨーロッパと日本の生活感覚上の「家の外」と「家の内」の境界線のありかの違いについて、和辻哲郎が風土のなかで言及していた。生活と共同体の防衛の成り立ちから、ヨーロッパにおける家の内外の境界線は国境まで拡大させられ、日本においては各家の玄関に厳然とした境界線がしかれているというのだ。ヨーロッパにおける個々人の鍵のついた部屋という境界線が、日本においては屋内に存在しない。そして日本における家の内という境界線が、ヨーロッパでは城壁でかこまれた内にまで同様に解釈できるという。だいたいこんな感じだった(?)。

 

日本においては家の外のことは自分のことではないのである。

そのため、街の景観、例えば、道路、川、公園、建物、つまり家を外から眺める視点のあらゆるものに対して注意が払われない。それらはもっぱら実用上の要請に対して必要最低限の資源と労力によって維持される。

 

「実用上の要請」や「経済的必要」に「美的価値や機能」は含まれない。現代日本では「美」は無駄で贅沢で謎の代物であるのだ。国所有のものがかっこよくて美しければ、それは金の無駄遣いなのである。なぜ現代日本が「実用的な物」に「美」を認めなくなったのか、はよくわからない。高度経済成長の恩恵のもと、実利主義や俗物主義とも言える思想が蔓延した結果かもしれない。

 

このように現代日本においては、「家の外は関心外」、「実用的な物に美は無駄なもの」という意識がある。そのため「家の外の景観を美しくする」行為は非常に難しいものとなっている。そのために日本における景観の向上や保持については、非常に低いレベルにあると言っていいだろう。

 

件の腰巻きビルに関しても、様々な要請のもとに計画され、そのために美が犠牲となる、あるいは考慮すらされていない、そういう結果であろう。伝統的建築物の上にガラスのビルが突き刺さっている様を、「仕方がないと容認できる」ことが現代日本の思想をよく表している。これは、同時に「その程度のものに」という市民の圧力でもある。

 

美や、もっと手短に「景観」、「外観」といったものの機能や性質、人間生活の豊かさとの関係についての、知識、理解、体験を日本全体で深めていくことでしか、こういった事例を改善していくことは、現実的には不可能なのであると思う。

 

美的(BITEKI) 2016年 06 月号 [雑誌]

美的(BITEKI) 2016年 06 月号 [雑誌]

 

 

4月の新宿駅の美人率について

ここ1ヶ月ほど、通勤をした。

片道1時間以上である。

もちろん満員電車に揺られてである。

これは人間社会においてあらゆる損失でしかない。

 

ところが自分がいざその身になると、通勤自体に意義を見出さずにはいられない。これは不幸なことであるが、同時にこの極めて特殊な状況下では、その特殊さもすでにひとつの娯楽である。

 

いつもは本を読むのだが、何回か「美人率」を計算するという遊びを楽しんだ。

 

2016年4月、朝の新宿駅で水木金の3日間実施した。

 普通に通勤しながら、すれ違う人の総数と、そのうちに含まれる美人の数から、美人率を計算する。といういたってシンプルなものである。ただ乗り換えのために歩いている間にも、すれ違う人間の数は1000を超える。これは、計算される美人率も精度があがっていくことが期待できる。

 

4月といえば、1年のうちで最も通勤人口の平均年齢が若くなる時期である。そのために美人率は少しブーストされている可能性があるが、それでも結果はだいたい5パーセントに落ち着いた。これは20人にひとりという値である。かなり美人の定義をゆるく設定したにも関わらずこの値であった。これは、小学校、中学校、高校、大学と、美人はクラスにひとりいるかいないかという経験値とも近しい値である。

 

この5パーセントがどれくらいかというと、

例えばざっと調べてみると(正確さは保証できない)、

・全人口に対するLGBTの数

・日本人男性のうち、色盲を持っている数

・給与所得者のうち、年間給与が800万を超える人数

などが該当するらしい。

だからどうということではない。

 

この美人率が変動する要因として

・観測者の好み、美人の定義

・時期、場所、時間

などが考えられる。

つまり指標としてはかなりゆるいものである。

 

しかし即ち無意義ということにはならない。

なぜなら、おそらく男性がなんとなく経験値的に感じている美人率は、どのような計測方法でも似た値に落ち着くことが予想されるからだ。

 

「美人は非常に少ない。だいたい20人にひとりくらい」

 

きっと多くの男性がこう思っている。

これを証明するには全国の特派員の報告を待つしかない。

君の報告を心待ちにしている。

 

(実際は待ってません)

 

 

 

美人の正体 外見的魅力をめぐる心理学

美人の正体 外見的魅力をめぐる心理学

 

 

ヨーロッパの森林面積の変遷が知りたいが僕には難しい

今、和辻哲郎の風土を読み終え、

なにするでもなくボーッと、内容を感じようとしている。

 

いずれ感じ、考えたことを文章にするつもりであるが、

ひとつ今気になっていることがある。

 

ヨーロッパの森林面積である。

 

「風土」の中で和辻は、

ヨーロッパについて牧場的であるとし、そこでの人間の生産活動は容易なものであるとしている。夏期の乾燥のために、植生の著しい生長が抑えられ、人は何をするでもなく田畑や牧草の維持ができ、容易に食物の生産がされ、そのために牧場的人間が生まれたとある。

 

それが正しいかどうかは僕はどうでもいいのだが、

どうにもヨーロッパの森林面積の変遷が気になって仕方なくなってきた。

 

噂によると昔はヨーロッパのほとんどは森林であったという話すらある。そしてヨーロッパの森は日本とはだいぶ違うであろう。それがどんな森であったか、非常に興味がそそられる。ほとんどとはどれほどなのだ。和辻のこのヨーロッパに関する著述には、辛辣な批判がなされている(行ったことないからデタラメ書くんだ!的な)らしい。

 

が、森林面積の時系列変化などというものは

調べようにもなかなかこれが難しい。

英語のサイトなどもでてきた。

 

では、寝るとするか。

 

 

風土―人間学的考察 (岩波文庫)

風土―人間学的考察 (岩波文庫)

 

 

余暇余暇

余暇についてである。

 

余暇について考えたことがあるであろうか。

これはなかなか大変なテーマである。

 

たとえばベーシックインカムやヒキコモリなどの話題になると必ず出る意見として

 

「働かずに何するんだ」

「働かないとだめ人間になる」

 

といったものがある。

結論としては逆である。

 

「働く暇などあるか」

「働くとだめになる」

 

冗談である。

 

しかしシンプルに考えて、個人的性格としての人間性と労働は無関係である。また同時に、労働から解き放たれたとき、何をしたらいいのかわからなくなる、というのは少々ナンセンスである。働くことが生きることなのか?いや他に何も知らない無知か、なにに対しても興味が持てない無気力なだけだろう。教養不足である。労働に崇高な理念を信じる輩は情熱を持って勉強すべきである。 以下の本で。

余暇と祝祭 (講談社学術文庫)

余暇と祝祭 (講談社学術文庫)

 

 

と、見せかけて、

これから読もうと思っている本である。

 

今まで見たネット上に書き込まれた文章で印象的なものが以下である。

「自営業者なら休日も働けよ」

「平日の昼間にネットできるなんて」

「働かなくなれば人類は衰退する」

などなど。

 

というわけで余暇についていずれ書くのだ。

自分が40とか50になって、まだ父親が生きているってどんなだろ

僕はあんまりテレビを見るほうではない。

が、会社をやめて家で過ごす時間が増えてくると、やはり視聴時間は増えてくる。

 

それとは関係ないが、今まで興味が持てなかったいわゆる「くだらないテレビ番組」を面白いというか感情移入してみれるようになった。理由はわからない。

 

以上2つのことが重なって今世間ではイケイケなのか?わからないが香取慎吾くんがでているテレビ番組(ドラマ)をほぼ毎週見ている。録画してチマチマ空き時間に少しずつだコノヤロウ。

 

というのも、日本国民の父こと西田敏行がドラマ内で余命幾ばくもないと告白したのだ。思いのほかうろたえる息子こと香取慎吾である。そんな馬鹿な、僕なら喜んじゃうね、やっぱりテレビだな、と思っていたが、昨日風呂に入っているときに気付いたが、僕自身も父親が他界していた。(今思い出したがドラマ名は「家族のカタチ」であったと思う)

 

高校2年生の冬、僕16歳(か17か18)であった。

今は自分が父親になってしまった。

あの世にいけば息子に喜ばれる側である。別に悪い気はしないが、その後の妻が大変そうでがんばらネバダと思うのだが、確かに良く考えると僕の父親も最後は残される家族の心配をしたのだろうかという疑問がでてきた。しなかったことはないだろう。

 

しかし僕は同時にこうも思う「案外僕がいなくなったほうが妻の心配事は減って、僕の気苦労も減って(?)いいことなのかもしれない」

 

ということは僕の父親も似たことを考えたかもしれない。

「息子と娘が大学にいくお金をどうするんだ!自分と妻の老後は!母の面倒は!おっと、お迎えだ!さよならバイビー!ヤッホウ」

 

他人の考えなどはわかる由もないが、高校生だったときの僕はどう思ったかは思い出せるはずだ。もはや10年前の自分など、ほとんど他人だが思い出せることもあるだろう。

 

まず父親から先が長くないことを聞かされたとき。僕はとても喜んだ。

地理の授業中、病院から臨終の連絡がきたとき、僕は喜んだ。

春がきたようである。高校の玄関口をでて、午後の日差しを受け、まぶしさに眉をひそめる僕の口元は確かに緩んでいた。暖かく、みどりの鳥がさえずるような木漏れ日であった。そんな1月であった。

 

思い出せることは以上だ。

 

その後の僕は、放蕩に近い生活を送っている。そして墓参りに行く度に、「父ちゃん、おれ、なんとかするから!なんとかがんばるから!」とばかり心の中で思っている。そしてことあるごとに、「父親が生きていたら、なんて言われるだろう」とビビるのである。余談であるが、今「父親」と打とうとして「乳屋」とミスタイプした。しかしそう見当違いのミスとも言えないのである。ちなみに売るのではなく、買うほうである。

 

僕はよく精神がどこからきて、どこへいく何者なのかを考える。

今ここであまり広大な話をするつもりはないが、少なくともあらゆる生命は、自ずから生じるのではなく、必ず別の個体より生まれる。生命は、必ず社会や間柄に関係する。であれば、祖先の存在は前提である。

 

西田敏行のひとことから思ったことである。

四ッ谷雑感

最近四ッ谷界隈に出没するのだが、やはり来たことの少ない町を歩くのは楽しい気持ちのするもので、ここ数日の妙にぽっかりとした陽気の中では、もはや足をとめるものもなく、ただひたすらにひとびと、あるいは建物なのか空なのか、そういったもの共の有り様動き様を楽しみ流し、気が付けばここは麹町、あるいは半蔵門、またあるいは市ヶ谷へとふらふらしてしまうのである。


ところで四ッ谷のアトレには喫煙所がある。屋内の。そこの腰掛けはレールであった。


四ッ谷駅のすぐ近く、地下に入ったところに船宿というこじんまりとした居酒屋があり、大将がひとりでランチ営業を回していた。比較的に大きめのテーブルが3つにカウンターが3席、木目や瓦の見える作りではあるが4組ほどの客が入れば次は待ってもらおうかというほどの規模である。名の通り魚を出すようで、とにかく昼に関しては、さっぱりあっけらかんとした海鮮丼ひとつである。どうということはない。不思議な強い存在感をもつ大将の見た目をだましてでてくる優しげな言葉とでも言えばわかるような海鮮丼である。今週だけで2回いきますた

子供の成長は遅ければ遅いほど良い

ちらほらと、小さい子を持つ人間が周りに増え、その日々の悲喜を耳にする機会も増えてきた。親が子に対する愛のあまり、あらゆることが心配となり、胸のうちにつかえを抱えるのを見ると、こちらも切ない気持ちに吹かれるわけだが、だからといって何することもない。他人の子などというものは未知の未知である。


というわけでこの場でひとつ、ごく個人的な法則をひとつ。

それは、乳児のころの成長は遅ければ遅いほど良いということだ。もちろん人それぞれ早い遅いに良し悪しなどあるべうもないが、遅いほうが僕は好ましいという話である。


おそらく早いほど獣に近づき、遅いほど放蕩に近づくというような傾向がある。どちらがより好ましいかとい話である。ちなみにこれらのいずれかを他人が決めることはできない。あくまで子自身が枝の伸ばす方向へ手助けするのみである。そしてたいがい親も同じ道を辿ってきている。


精神の発達がどのようなものであれ、意思は常になんらかの働きをしている。我々が見る子の発達というようなものはそのうち確かに目に見えたものだけであって、花が咲かないからと言って根は弱いかといえば、そんなことはわかるわけがないのである。なんにせよ情の深化よりも行動の高度化が先んずるときには、それは動物に見えてしまうのである。これは全年齢に言えることである。


同様に遅いからといって、それはまるでスロー再生のように、あらゆる神経の伝達がゆったりとしているなんてことはあるはずがない。梅の並木の色づきと同様、目に見えたタイミングである。遅い梅の貧弱たるからではない。


意思の満足が心身の内々にあるということは、趣を知ることにつながる。これがすぎれば放蕩の道を歩むことになるのだろう。


まあとにかく成長は早くても遅くても変わらないということである。