プルームテック買ってみた

私は仕事のためにかなり長い時間をPCの前で過ごす。

PCのディスプレイはきれいでなければならない。

しかしタバコは吸う。

 

タバコでディスプレイが汚れるのは非常に困るし、

またPC内部への影響も心配である。

 

各種資料や本が汚れるのも非常に困る。

 

ヤニの出ない電子タバコはどうだろうと、

プルームテックを買ってみた。

 

10mg、20mgというようなタバコを吸っていた人間にとっては

満足のいくものであるかは甚だ謎である。

ネット上では吸った感じがしない、という声もあるが

その通りだろう。

 

しかし火を使わず、

好きなだけ吸って、あとは置いておくだけというのは

非常に便利である。

 

また煙の類いも、気になる人間はまずいないだろうというレベルである。

 

私はタバコが好きで

葉巻やキセルなんかもたまに楽しむが、

やはり紙巻きの紙の雑味はいただけない。

 

電子タバコにはそれがないのも利点のひとつだろう。

 

このプルームテックは

携帯、運用、見た目がスマートであるのは間違いない。

 

今後さらに進化をすることを期待するとするかの。

紙巻きのように重さを選べたりの。

 

紙巻きタバコはその強烈なにおいのために

立ち位置が変遷しているが、

このように別の形態へと変化すれば、

また違った嗜好のされかたをするであろう。

 

なんにせよ人類には嗜好品は不可欠である。

人生も嗜好品のようなものであるからである。

 

 

 

 

 

 

デザインの勉強って?

私のすべての記事に言えることだが、

今回もまた読むに値しない。

 

私は紙もののグラフィックデザイナーという先のない仕事をしている。

 

デザインとは何か、というところを問うていけば、先のないなんてことは決してないのだが、そういったこととは無関係に現実にある仕事の単価は下がる一方、自分が年老いてなお仕事をもらえるかというと希望は薄い、そういう意味で暗い職業である。

 

これからデザイナーを目指す若い諸君に言うことはない。

人というのは、自分よりも後から来た者に対して説教を垂れたい性質があるらしく、3歳の親戚の子が、うちの息子2歳に対してあれこれ指示を出しては「あーだめだめ〜、ここは走っちゃだめだよ〜」とお兄さんな自分を親にアピールするが如く、ネット上も現実社会にも新参に対してのありがた迷惑なアドバイスが満ちている。それらを参照されたし。

 

私は仕事に誇りを持ってなどいないが、しかし作るからには良いもので満足してもらいたいのが人の心の常である。

 

そこで日々デザインというものと格闘しているのだが、さらなるステップアッピングを目指して、デザインの勉強をしたい。

 

どうするか?

 

それが問題である。

 

過去の私は、デザインを勉強しようとして、最初は哲学に走った。

デザインを知るには人間や自然の理解が必要だと踏んだのである。しかし、この世界というのは、あれを理解して、これに活かすというようにわかりやすくは出来ていない。哲学を含め学問は知識ではなく営みである。知ってどうという話ではない。無論、デザインも宇宙の仕組みのひとつであって、哲学が非常に重要なことは変わりないが、とにかくデザインスキルに対する即効性はなにひとつない。

 

 

人に聞いてよく言われるのは、一流のデザインを見て、一流の感性を養うというものである。

 

この物言いがとても胡散臭くて嫌いだが、一理はあるだろう。課題に対して他人がどういう解を示したか。この事例を自分のなかに溜め込んでいくことは、これからの作業をより深化させるであろう。特に初学者においては、モノマネレベルでもそれなりの形がつくれるようになるかもしれない。お得である。

 

しかしやはりデザインにはいろんな側面があり、他人の作った完成品ばかり見ていてもしょうがないのである。

 

例えば最近旅行関係の書籍をデザインして気付いたことがある。

私は旅行本を読みながら、ワクワクして旅の工程を夢想したり、注意点を読み込むというような経験がない。そんな人間が旅行本のデザインができるのだろうか?デザインに向き合えているのだろうか、と。

 

無論、旅はする。旅の情報も集める。旅程を楽しもうとする。最低限、旅行本に相対する資格はあると信じたい。

 

やはり豊かなデザインの源泉は生活なのである。

アメリカのデザイン思想の影響が強い日本においては、ことさらマーケティングや商業的付加価値としてのデザインが強調され、デザイナー自身も商業の中にデザインを置いていることが多い。が、根源的にはデザインは人と外界との化学反応であり、生活そのものの創造性ではないのか。

 

もちろんこれに対して今後も格闘していくのだが、仮にそうだとして、デザイナーはどうすべきかというと、やはり先人達の残した仕事を足がかりに、生活を真摯に見つめるしかないだろう。試行錯誤によって良い解決を探ることになる。

 

で、どうしよう。

 

それはそうと、飛行機はかっこええなあ

 

 

747 ジャンボ物語 (キャンブックス)

747 ジャンボ物語 (キャンブックス)

 

 

意外にも自営業開業1年でクレジットカードの発行ができて少し嬉しい

私は個人事業主である。

開業1年ちょっとである。

 

最近MacbookProを買ったときは、12ヶ月無料の割賦払いは断られた私だが(わかってはいたが少し落ち込んだ)、意外にもクレジットカードの新たな発行ができた。

 

簡潔に述べるとこうだ。

 

私はもともと銀行発行のクレジットカードを使用してきた。たまたま新たに発行しようとしたカードが同じ銀行の管轄(?)であったために、きっと私の情報を持っていて、それを参照してGOサインが出たに違いない。

 

今回クレジットカードが必要になったのは単純に、交通系ICカードオートチャージがしたかっただけである。

 

なにせ現金で切符を買って領収書を発行するのは面倒である。

交通系ICカードの一部は履歴を発行することができるし、オートチャージにしておけば、これは画期的な楽チンさを手に入れられると踏んだのである。

 

他に、単純な方法としてはmobile SuicaApple Payという手段があるが、残念ながら私が使っているiPhone5sは現役バリバリで快適そのもの、見た目は汚らしいがなんら問題はなく、そしてApplePayに対応していない。

 

しかしそれらスマートフォン決済以外の選択肢では、オートチャージをしようとすると、特定のクレジットカードが必要になり、その仕組みは煩雑である。

 

詳しい事はわからないが、クレジットカードの手数料が関係していて、提携カード以外は使わせたくないのだろうか。

 

ユーザーにとっては非常に不便と言うほかない。

 

こういった状況というのは現状に至る経済的なチカラというものの結果であると思う。例えば中国など諸外国では電子決済がお盛んらしいが、それはやはり紙幣の信用と無関係ではないだろう。つまり、手数料を払っても、現金を扱うリスクより安いというものだ。日本においては偽札の心配がほとんどない上に、現金崇拝の強いお国柄である。企業にとって手数料のかかるクレジットカードの導入のインセンティブが働かないのであろう。知らないけど。

 

この現金信仰は、なんだろうか。やはりなにか歴史的理屈があるだろうが今のところ調べてすらいない。みんな江戸っこなのだろうか。

 

現実的な支払いの運用を考えると、クレジットカード使用のメリットは、現金をはるかに上回る。

 

ポイントによる実質的な値引き、紛失悪用時の保険、海外旅行保険、至便な支払い、履歴が残る、携行の手軽さ、その他の特典や提携企業の割引等である。

現金はこれらが無い上に、紛失したら終わりである。

 

しかし人はいつも合理的なわけではないし、合理性がすべての基準であるべきでもない。

特に他人の信仰に関しては、なにも言うつもりはない。

 

ただ、日本における電子決済がさらに普及すると、自分が楽になる、というだけの願望である。

 

話は変わるが、

はるかな昔、バイトをはじめたの姉が、時給が10円あがったとかで、10円のありがたみについて力説していたが、私にとっては10円は10円である。時給であれば、時給の10円である。10円のありがたみとはなんであろうか。彼女の話からは何も知ることはできなかった。これもよくある信仰のひとつだろう。理解できなかったのは私の知力の無さもあるが、おそらく具体的な理由はない単なる嬉しい気持ちと、バイトを始め自分が大人になった錯覚からくる満足した気持ちであるからだと思う。時給を10円あげて、さらに身を粉にして働く高校生を雇えるとは、店長もさぞかし喜んだだろう。

 

金銭とは何か。日常生活が金銭によって運営される限り、これは重要な問いでる。例えばサラリーマンは時給によって給与が支払われるので、金銭=時間と言えるだろう。時間とは人にとっては人生であり、宇宙である。つまり金銭=人生と言うこともできるだろう(?)。

 

さらに脱線すると、最近買ったmacbookproには大変満足している。touchbar無しモデルのintel core i5 2.0GHzメモリ16GBのSSD512GB約20万円である。この値段は私にとっては鈍器のようなものであって、非常に躊躇したが自分をごまかして買った。このSSDの効果なのか、indesignが2秒で立ち上がる。すこぶる快適である。CPUのスペック的にははるかに上のiMac27inchを前に、なぜかこのmacbookproで仕事をしてしまうガキンチョ魂を発揮している。画面はもちろん小さいので不便であるのに!

 

しかし私が従事する紙のデザインの仕事ではまだまだAdobe CS3〜6は現役であり、必須である。Sierraでは無理矢理動かすことはできるが一部どうしても不安定になる。私の場合はindesignCS6が起動してすぐ落ちるという現象に悩まされた。いくつか試した結果、どこかの検索結果にあったJavaをインストールする、ということで一応は使えるようになった(セキュリティ的に推奨しないとの文言もあり、よくわからないので不安)。そして、フォントを選択しようとするとすぐ落ちてしまう(使えると言っていいのか)。なんとか改善できるとよいのだが。

 

なんの話だったか。

 

とにかく私は来週から、チャージレスの快適改札生活を送るのだ。

 

ほとんど外出の機会がないのが悔しいくらいだ

 

 

改札の向こうに待つ者・・・

改札の向こうに待つ者・・・

 

 

髪のからまらない安くて有用で美しくメンテナンスが気持ちの良い掃除機はありますか

髪の毛を吸う前提の掃除機の先端には、なぜ髪がからまるローラーがあるのか?なぜそこの髪の毛をとるのが簡単ではないのか?汚れやすい掃除機の掃除はなぜ手軽でないのか?

水回りで使う前提の商品(風呂の椅子や浴槽の蓋など)は、なぜわざわざ凹凸をたくさんもち、カビやすく、また掃除しにくく作ってあるのか?

 

これらの製品を売っている人間は、自分で使ったことがあるのか。妙に心が悪く燃えているときなどは以上の様なことを考えてしまうときがある。もしかしたらもっとお金を出せば、それらが解決された、あるいは日常使用においてより気持ちのいい使用ができる商品もあるのかもしれない。私には無縁のお金である。

 

だが制作サイドだけの問題ではない。並んでいる商品の質が全体的に低い場合、大衆がそれに対してあまり情熱を持っていないことを示している。例えば日本において、諸外国に比べて全体的な質の高いものと言えばいくつか頭に浮かぶだろうか。

 

食品などは、おいしいかどうかもあるかもしれないが、その安全性に関してはレベルが高いのではないだろうか(海外のことは知らないが)。組版や治安、人的サービス、電化製品の精度、アニメやフィギュアなどが思いつくが、おそらく日本のレベルは高いだろう。我が愛しの盆栽などは言うに及ばずである。

 

これらは日本人の多くが関心を持ち、細やかな品評を行い、厳しい選定を行なうからこそのレベルの高さだろう。(しかしそれらがすべての面において優れているわけではなく、家電やスマホガラパゴス化が代表しているように、真に消費者を満足させる面が優れている場合はむしろ少なく、商品の限られた一面ばかりがやけに優れているということも多分にある。食品も人的サービスについても、消費者満足を真摯に捉えているかと言うと怪しいものも少なくない)

 

つまるところ人々が需要し、より情熱を持って愛用するものほど、レベルは高くなり、また値段についてもバラエティがでて、そしてより速く進化していくのである。であれば、より消費者満足の高い製品も安価になるのである。その人々の嗜好を操作することは誰にもできない。まさに神のみぞ知るのである。私がどれだけリーズナブルな家電に文句をつけたところで、製品が変わっていくことはない。

 

「街の景観は、その住民の審美眼を表している」(うろ覚え)と言ったのは谷口吉郎である。

 

大衆の性質がそのままあらゆる現状を形作っていると言っていいだろう。個人的見解としては、日本人には(私の言う「日本人は」「日本は」とは「海外は知らないが少なくとも日本は」という意味である)美に対する価値付けと日常風景への情熱が足りない。

 

人生は日常である。日常以外に幸せはないと言ってよい。その日常を支える家事は生きる喜びのひとつである。道具は人格の担い手のひとつである。家電や日用品のある部屋は、人生の景色であり、その使用は人生の活動であり、次世代育成環境である。次世代が見たいのは仕事で輝く親ばかりではなく、ごく基本的日常生活をエンジョイする姿も同様なのではないだろうか。日用品は生活を彩っているか、進んでメンテナンスしたいと思えるか、やりやすく喜びを伴うか、それへの支出に満足出来るか、それらをたまに振り返るような大衆でもよいではないか。

 

ちなみに私は妻に任せっきりで家事掃除はしない。(本当は炊飯と風呂掃除と洗濯とたまに掃除機をかける程度はする)

 

以上長々と書いたのははただの愚痴である(掃除機の髪のからまりに対する)。

 

この1年は米を洗いながら、その洗い方について考察している。それについてもいずれここに書き記そうと思う。無論まったく有用な話ではない。

 

 

 

DNAのらせんはなぜ絡まらないのか

DNAのらせんはなぜ絡まらないのか

 

 

 

 

移動と精神

川沿いをふらふらしていると、出くわすのは決まってジジイである。

 

最近自転車での数時間の小旅行に熱をあげている。

 

川沿いが楽だから多く走るが、場所によっては住宅街も面白い。面白くない住宅街もある。

 

そこで走っている間にちょこまかとのぼる考えがある。

 

移動と精神の関係である。

 

移動は必然的に未知との遭遇である。

 

例えば、少し道をそれただけでも、普段とりたてて話題にせず、またそれに言及するための言葉すらないような、小さな在り方や文化の差異を体験する。国にはそれぞれの雰囲気があり、都道府県も同様である。場所にはそれぞれ作法があり、道路にはそれぞれルールがあり、あらゆる居住スペースにはそれぞれの生活スタイルがある。自然条件によって形成される植生や生物分布、それと人間生活によって形作られる景観は、すべてが相まって、結果として風土と呼ばれる様な雰囲気がある。

 

それらを考慮にいれると、空間的広がりは精神的多様性と無関係ではいられない。

 

というようなことだが、やはり自転車をこぎながら漠然と考えている段階ではうまく文字にできない。

 

 

「移動」の未来

「移動」の未来

 

 

今となればお腹が弱いほうが生きるのが楽だった

私はお腹が弱い。

 

幼稚園〜小学生のころはお漏らし複数回(液状固形物)(?)。

 

中学生以降は表立っての漏らしはないが、このような性質のために行動範囲内のトイレの位置、特性を記憶するに至った。

 

大学生以降になると、気のゆるみから漏らすこと複数回(いずれも車の運転中)。

 

ところがここにきてお腹を壊すことが少し減った。理屈はわからないが、もしかしたら会社をやめてこの1年まともに人と会っていないため、対人ストレスが減ったことが原因かもしれない。

 

ちなみに去年のラジオから聞こえてきた情報によれば、2016年のいて座の私の運勢は何をやってもうなぎのぼり、いけいけどんどん運勢だったらしいのでその効果かもしれない。

 

(ちなみに先ほど聞こえてきた2017年の運勢は4位。モテる、だけ聞き取れたが私は既婚者であった。恨めしい)

 

しかし物事は良い事と悪いことは背中合わせ。上述の人生経歴のため、私は「ケツの穴の小さい男」であったらしい。おなかの調子が少々上向いた関係で、今度は肛

 

 

 

水戸黄門 サウンドトラック2

水戸黄門 サウンドトラック2

 

 

日本の映画ポスターはなぜダサイ問題私見

日本の映画ポスターはなぜダサイ。

 

こんな話題を見つけた。

 

映画ポスターに限らず、商品パッケージでも、町並みでも、日本のものはゴチャゴチャとしてダサイのではないか?という疑問は、案外ほとんどの日本人が持ったことがあるのではないだろうか。(が、今回は映画ポスター以外には触れない。)

 

さらっとネット上を見てみると以下のような意見が見られた。

 

ダサイと売れる

・非映画ファンにアピールすると情報量とアオリが増えダサくなる

・ファン以外へのアピールが必須

・格好良さよりわかりやすさ

 

日本の広告の習性

・もともと日本はデザイン性よりも文字情報重視

・説明過剰のほうが効果的とされている

 

カッコイイ文化がない

・カッコイイを評価できる人間が社内・世間にいない

 

特定企業(人物)のせい

電通がダサイ

・偉いひとがダサイ

・ダサイひとの許可が必要な組織体制

・消費者のセンスを低く見積もっている

 

国民性

・日本人がダサイ

・日本人は感性が鈍い

・日本人は立体的な構図を好まない

・日本人は顔が正面に見えないと不安になる

・日本人はわかりやすいほうが安心する

・日本人はゴチャゴチャが好き

 

映画文化の違い

・映画の身近さの違い

・普段から映画の情報に触れる機会の多寡

・ライフスタイルのなかの映画の位置の違い

・映画ファンの人口が少ない

・高価なので、より詳しく知ってからでないと見ない

・よく知り安心しないと見ない

・海外では、広告がターゲット層以外に届かなくても別に構わない

 

 

などなど。

個々の意見がまったくの無関係ではなく、それぞれ妙につながっていて、確かにややこしい。

 

海外でかっこよく、日本でダサイポスターの作品事例を見つけて、その作品のポスターが作られる背景(海外と日本の違い)を丁寧に追っていけば、より説得力のある仮説にたどり着けるだろうし、またそもそも日本のポスターがダサイのかを論ずることも有意義かもしれない。

 

僕はもちろんそんなことしないが、ひとつ個人的に気になるのは、このポスターダサイ問題の、問題とされる点が実際には2つあるように見えるところだ。

 

ひとつはもちろん、「日本だけダサイ」

 

さらに、ダサイを細かく見ると

・文字が多い

・キャッチコピーの内容がダサイ

・構図がありきたり

・色、人物など様々な形態において情報量が多い

などがある。

 

これはどういうことかというと、消費者に価値があろうと思われる情報を列挙している。「無添加、地域限定、栄養豊富」と同じである。そのために、何が失われているかというと、例えばその作品のもつ世界観や雰囲気、精神性(映画は本来これを楽しむものかもしれない)、つまり作品性を犠牲にして、広告情報が書き込まれているということである。

 

もうひとつは、

「広告で予期される内容と、実際の内容が違う」という点である。

 

内容いかんに関わらず、より大衆受けしそうな顔にして売り出す、ジャンルさえ飛び越えて見せる、得られる感動を先に書いておきながら実際は違う、などなど。これは方々から批判を浴びるのは当然であろう。

 

以上のように、僕がネットを見て感じたポスターダサイ問題における、一番の問題ポイントは「作品の軽視」である。

 

ちなみに僕は映画をあんまり見ないし、そもそも映画ポスターが貼られている現場を見たことがない(気付いたことがない?)。しかしああいう文字でひたすら煽るタイプの広告は非常に不快になるので、どちらかといえば僕は「日本のポスターはダサイから改めろ派」と言えるかもしれない。(公共の場は広告含め美しくあってほしい)

 

個人的には、ポスターもパッケージも、映画という作品の一部であるという観点のもと作られ、広告含めた関連グッズのすべてが映画製作者の描いた作品の理念に基づいて設計されることが、合理的であるように見える。その合理性に従えば、大衆向け映画は現状のママが合理的かもしれない。そもそも良い映画というのはすべてがすべて大衆受けするものではない。

 

また、作品軽視の広告で客が釣れたとしても、映画業界の衰退を招くだろう。

 

しかし、軽視している主体は誰かというと実は大衆なのである。

 

映画カルチャーを引っ張る層と、映画業界を金銭的に支える層が同一であれば、こういった問題は起きたか。仮に起きなかったと考えると、日本における年齢と所得の偏り方、あるいは長時間労働に起因しているのかもしれない。

 

 

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