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髪のからまらない安くて有用で美しくメンテナンスが気持ちの良い掃除機はありますか

髪の毛を吸う前提の掃除機の先端には、なぜ髪がからまるローラーがあるのか?なぜそこの髪の毛をとるのが簡単ではないのか?汚れやすい掃除機の掃除はなぜ手軽でないのか?

水回りで使う前提の商品(風呂の椅子や浴槽の蓋など)は、なぜわざわざ凹凸をたくさんもち、カビやすく、また掃除しにくく作ってあるのか?

 

これらの製品を売っている人間は、自分で使ったことがあるのか。妙に心が悪く燃えているときなどは以上の様なことを考えてしまうときがある。もしかしたらもっとお金を出せば、それらが解決された、あるいは日常使用においてより気持ちのいい使用ができる商品もあるのかもしれない。私には無縁のお金である。

 

だが制作サイドだけの問題ではない。並んでいる商品の質が全体的に低い場合、大衆がそれに対してあまり情熱を持っていないことを示している。例えば日本において、諸外国に比べて全体的な質の高いものと言えばいくつか頭に浮かぶだろうか。

 

食品などは、おいしいかどうかもあるかもしれないが、その安全性に関してはレベルが高いのではないだろうか(海外のことは知らないが)。組版や治安、人的サービス、電化製品の精度、アニメやフィギュアなどが思いつくが、おそらく日本のレベルは高いだろう。我が愛しの盆栽などは言うに及ばずである。

 

これらは日本人の多くが関心を持ち、細やかな品評を行い、厳しい選定を行なうからこそのレベルの高さだろう。(しかしそれらがすべての面において優れているわけではなく、家電やスマホガラパゴス化が代表しているように、真に消費者を満足させる面が優れている場合はむしろ少なく、商品の限られた一面ばかりがやけに優れているということも多分にある。食品も人的サービスについても、消費者満足を真摯に捉えているかと言うと怪しいものも少なくない)

 

つまるところ人々が需要し、より情熱を持って愛用するものほど、レベルは高くなり、また値段についてもバラエティがでて、そしてより速く進化していくのである。であれば、より消費者満足の高い製品も安価になるのである。その人々の嗜好を操作することは誰にもできない。まさに神のみぞ知るのである。私がどれだけリーズナブルな家電に文句をつけたところで、製品が変わっていくことはない。

 

「街の景観は、その住民の審美眼を表している」(うろ覚え)と言ったのは谷口吉郎である。

 

大衆の性質がそのままあらゆる現状を形作っていると言っていいだろう。個人的見解としては、日本人には(私の言う「日本人は」「日本は」とは「海外は知らないが少なくとも日本は」という意味である)美に対する価値付けと日常風景への情熱が足りない。

 

人生は日常である。日常以外に幸せはないと言ってよい。その日常を支える家事は生きる喜びのひとつである。道具は人格の担い手のひとつである。家電や日用品のある部屋は、人生の景色であり、その使用は人生の活動であり、次世代育成環境である。次世代が見たいのは仕事で輝く親ばかりではなく、ごく基本的日常生活をエンジョイする姿も同様なのではないだろうか。日用品は生活を彩っているか、進んでメンテナンスしたいと思えるか、やりやすく喜びを伴うか、それへの支出に満足出来るか、それらをたまに振り返るような大衆でもよいではないか。

 

ちなみに私は妻に任せっきりで家事掃除はしない。(本当は炊飯と風呂掃除と洗濯とたまに掃除機をかける程度はする)

 

以上長々と書いたのははただの愚痴である(掃除機の髪のからまりに対する)。

 

この1年は米を洗いながら、その洗い方について考察している。それについてもいずれここに書き記そうと思う。無論まったく有用な話ではない。

 

 

 

DNAのらせんはなぜ絡まらないのか

DNAのらせんはなぜ絡まらないのか

 

 

 

 

移動と精神

川沿いをふらふらしていると、出くわすのは決まってジジイである。

 

最近自転車での数時間の小旅行に熱をあげている。

 

川沿いが楽だから多く走るが、場所によっては住宅街も面白い。面白くない住宅街もある。

 

そこで走っている間にちょこまかとのぼる考えがある。

 

移動と精神の関係である。

 

移動は必然的に未知との遭遇である。

 

例えば、少し道をそれただけでも、普段とりたてて話題にせず、またそれに言及するための言葉すらないような、小さな在り方や文化の差異を体験する。国にはそれぞれの雰囲気があり、都道府県も同様である。場所にはそれぞれ作法があり、道路にはそれぞれルールがあり、あらゆる居住スペースにはそれぞれの生活スタイルがある。自然条件によって形成される植生や生物分布、それと人間生活によって形作られる景観は、すべてが相まって、結果として風土と呼ばれる様な雰囲気がある。

 

それらを考慮にいれると、空間的広がりは精神的多様性と無関係ではいられない。

 

というようなことだが、やはり自転車をこぎながら漠然と考えている段階ではうまく文字にできない。

 

 

「移動」の未来

「移動」の未来

 

 

今となればお腹が弱いほうが生きるのが楽だった

私はお腹が弱い。

 

幼稚園〜小学生のころはお漏らし複数回(液状固形物)(?)。

 

中学生以降は表立っての漏らしはないが、このような性質のために行動範囲内のトイレの位置、特性を記憶するに至った。

 

大学生以降になると、気のゆるみから漏らすこと複数回(いずれも車の運転中)。

 

ところがここにきてお腹を壊すことが少し減った。理屈はわからないが、もしかしたら会社をやめてこの1年まともに人と会っていないため、対人ストレスが減ったことが原因かもしれない。

 

ちなみに去年のラジオから聞こえてきた情報によれば、2016年のいて座の私の運勢は何をやってもうなぎのぼり、いけいけどんどん運勢だったらしいのでその効果かもしれない。

 

(ちなみに先ほど聞こえてきた2017年の運勢は4位。モテる、だけ聞き取れたが私は既婚者であった。恨めしい)

 

しかし物事は良い事と悪いことは背中合わせ。上述の人生経歴のため、私は「ケツの穴の小さい男」であったらしい。おなかの調子が少々上向いた関係で、今度は肛

 

 

 

水戸黄門 サウンドトラック2

水戸黄門 サウンドトラック2

 

 

日本の映画ポスターはなぜダサイ問題私見

日本の映画ポスターはなぜダサイ。

 

こんな話題を見つけた。

 

映画ポスターに限らず、商品パッケージでも、町並みでも、日本のものはゴチャゴチャとしてダサイのではないか?という疑問は、案外ほとんどの日本人が持ったことがあるのではないだろうか。(が、今回は映画ポスター以外には触れない。)

 

さらっとネット上を見てみると以下のような意見が見られた。

 

ダサイと売れる

・非映画ファンにアピールすると情報量とアオリが増えダサくなる

・ファン以外へのアピールが必須

・格好良さよりわかりやすさ

 

日本の広告の習性

・もともと日本はデザイン性よりも文字情報重視

・説明過剰のほうが効果的とされている

 

カッコイイ文化がない

・カッコイイを評価できる人間が社内・世間にいない

 

特定企業(人物)のせい

電通がダサイ

・偉いひとがダサイ

・ダサイひとの許可が必要な組織体制

・消費者のセンスを低く見積もっている

 

国民性

・日本人がダサイ

・日本人は感性が鈍い

・日本人は立体的な構図を好まない

・日本人は顔が正面に見えないと不安になる

・日本人はわかりやすいほうが安心する

・日本人はゴチャゴチャが好き

 

映画文化の違い

・映画の身近さの違い

・普段から映画の情報に触れる機会の多寡

・ライフスタイルのなかの映画の位置の違い

・映画ファンの人口が少ない

・高価なので、より詳しく知ってからでないと見ない

・よく知り安心しないと見ない

・海外では、広告がターゲット層以外に届かなくても別に構わない

 

 

などなど。

個々の意見がまったくの無関係ではなく、それぞれ妙につながっていて、確かにややこしい。

 

海外でかっこよく、日本でダサイポスターの作品事例を見つけて、その作品のポスターが作られる背景(海外と日本の違い)を丁寧に追っていけば、より説得力のある仮説にたどり着けるだろうし、またそもそも日本のポスターがダサイのかを論ずることも有意義かもしれない。

 

僕はもちろんそんなことしないが、ひとつ個人的に気になるのは、このポスターダサイ問題の、問題とされる点が実際には2つあるように見えるところだ。

 

ひとつはもちろん、「日本だけダサイ」

 

さらに、ダサイを細かく見ると

・文字が多い

・キャッチコピーの内容がダサイ

・構図がありきたり

・色、人物など様々な形態において情報量が多い

などがある。

 

これはどういうことかというと、消費者に価値があろうと思われる情報を列挙している。「無添加、地域限定、栄養豊富」と同じである。そのために、何が失われているかというと、例えばその作品のもつ世界観や雰囲気、精神性(映画は本来これを楽しむものかもしれない)、つまり作品性を犠牲にして、広告情報が書き込まれているということである。

 

もうひとつは、

「広告で予期される内容と、実際の内容が違う」という点である。

 

内容いかんに関わらず、より大衆受けしそうな顔にして売り出す、ジャンルさえ飛び越えて見せる、得られる感動を先に書いておきながら実際は違う、などなど。これは方々から批判を浴びるのは当然であろう。

 

以上のように、僕がネットを見て感じたポスターダサイ問題における、一番の問題ポイントは「作品の軽視」である。

 

ちなみに僕は映画をあんまり見ないし、そもそも映画ポスターが貼られている現場を見たことがない(気付いたことがない?)。しかしああいう文字でひたすら煽るタイプの広告は非常に不快になるので、どちらかといえば僕は「日本のポスターはダサイから改めろ派」と言えるかもしれない。(公共の場は広告含め美しくあってほしい)

 

個人的には、ポスターもパッケージも、映画という作品の一部であるという観点のもと作られ、広告含めた関連グッズのすべてが映画製作者の描いた作品の理念に基づいて設計されることが、合理的であるように見える。その合理性に従えば、大衆向け映画は現状のママが合理的かもしれない。そもそも良い映画というのはすべてがすべて大衆受けするものではない。

 

また、作品軽視の広告で客が釣れたとしても、映画業界の衰退を招くだろう。

 

しかし、軽視している主体は誰かというと実は大衆なのである。

 

映画カルチャーを引っ張る層と、映画業界を金銭的に支える層が同一であれば、こういった問題は起きたか。仮に起きなかったと考えると、日本における年齢と所得の偏り方、あるいは長時間労働に起因しているのかもしれない。

 

 

旭酒造 獺祭 (だっさい) 純米大吟醸 磨き50 720ml
 

 

ラーメン

僕はあまりラーメンが好きではない
が、安くて早くてそこそこお腹いっぱいになるので食べることも少なくはない。
 
世の中は広い。
このラーメンひとつにもいろいろな楽しみ方があるようで、周りのお客さんが麺の固さを注文するのである。
 
よくわからない表現もあったので調べてみると
 
やわらかめ
普通
硬め
やや硬め
バリ硬
針金
湯気通し
粉落とし
乾麺
小麦
 
 
と、こんなにあるらしい。
 
内容はよくわからないが、ひとによって好みがあるのだろう。
(字面から伝わるものはある)
 
とあるラーメン屋で、客の老婆がツウな注文をしていたのを聞いたことがある。
 
婆:ラーメン、粉落としで、湯気通しまでいかないくらいで、ありゃ固すぎるよ
 
 
なんでもそうである。
こだわり、と呼ぶには抵抗があるが、人生を豊かにするのはいつもほんの少しの飾り気だったり洒落っ気だったりするのだ。ぼくはこのことを強調したい。
 
この老婆も普段どんなにいいものを食べているかわからないが、今日はラーメンに少しの注文をつけて老い先短い人生にタンポポを添えているのだ。
 
店員が店長に老婆の注文を伝える。
「ラーメン、かため」と言ったのを僕はしっかり聞いた。
 
しかしもちろん重要なことではない。
老婆はかためのラーメンを食べて満足して帰るのだ。
 
世の普通に従っていては、決して出会うことのない「生活の豊かさ」について考えた。

給料泥棒とどこにも通用しない人材

現在の日本の商習慣上、職務遂行能力のない新卒一括採用・終身雇用が一般的である以上、「売上貢献のない新人は給料泥棒」などというのはいわれなき中傷・洗脳行為であって、新人の人格を著しく傷つける言動であるから、こんな考えの人間はただちにその愚考を改めるべきである。

 

黒字倒産」という言葉がある通り、企業の存続に必要なのは売り上げだけではない。適切な管理、後継育成などを含めた「組織運営」が不可欠である。新卒採用はその一環として行なわれる限り、新人の給料は組織が必要と認めた運営費であって、決して恩着せがましいおこぼれではない。

 

というのも、「自分が給料泥棒なのではないか」と落ち込む若者に会ったからである。上司や世間の理論に惑わされ、精神的に弱まった状態で、職務遂行上有意義な広い視野と成長意欲が保てるとは思わない。若者に至っては、そのようなことは決してないと胸をはって職務に邁進するべきである。

 

また、「お前なんかここをやめたら、どこも通用せずに人生が終わる」と言われたという若者にも会った。そんな妄言を吐く人間が実在するのか、にわかには信じがたかったが、実際に目撃してしまった。

 

このセリフは言い換えると「君にはこんなキャリアの積み方が適切で、この会社でしかそれができない、やめれば生活に困窮する」ということであろうが、まったくそんなことはない。そういう発想を自然にできる上司のもとで精神を摩耗しながら働いていては、キャリアの展望など、望むべくもない。

 

若者は「能力のない自分を、ここだけは雇ってくれる」と思い込むらしい。が、まともな人間は、仕事ができないという理由で新人を罵倒したりしない。精神的負担が多いと思ったら迷わず転職するべきである。

 

 

関係ないが、僕の持論は「部下の出来は上司の責任」である。

 

冒頭に述べたように、日本では新卒一括採用・終身雇用がまだ一般的である以上、「部下」と言えば「上司の育てた新人・元新人」である。これに対して職務遂行能力が低いとなれば原因は上司や会社にあることになる。しかし一般世論としてそのようなことは言及されにくい。

 

・上司は単なる職務階級だけでなく人間的にも格上という押しつけ

・育てる意識・コストの不足

・新人育成法の育成・上司に対する教育の欠如

・それでもうまく立ち回る「社畜」的人間の多さ

 

結果として有能な人材はどこかで勝手に育ってくる雑草かのような扱いになり、手のかかる人材はたいした教育もされず無能扱いである。そのような企業はすでに職能を磨いてきた中途の採用を行なうべきだと思うが、なかなかなされない。

 

僕が知っている会社が中途を行なわない理由は3つ。

・高い給料を払いたくないために、有能な人材が集まらない。

・有能な人材が怖い。

・若くない人間が怖い。

 

これはいかん。

 

大学時代の就職活動をそつなくこなし、会社員生活を楽しく過ごしている人間はそれでいいだろう。

しかし、就職活動に疑問を持ってしまったり、商習慣に違和感を感じてしまったり、人生に占める仕事の在り方を真面目に考えてしまったりした人間に対しては、過酷な社会である。

 

この過酷さも日本の貧しさの原因のひとつである。

 

 

 

義務教育の全年齢化「一億総ゆとり制」

 

学生の頃、義務教育の全年齢化を考えたことがある。

あるいは部活のように趣味や地域コミュニティへの複数参加の義務化などである。

 

生きてきた人生と無関係の学問を深く学ぶことや、世界の最新動向、あるいは芸術や余暇の楽しみ方、伝統的な祭礼・技能、他職種についてなどを学んだり体験することは、「現代においてはこれを半ば強制的に人生に組み込むことでの社会的利益は大きい」のではないかということだ。

 

というのも個人的には、市民の哲学と芸術への親しみの深化が社会的豊かさへ寄与すると考えていたからだ。そしてこれからは「中高年への教育」が重要かつ必要になると思っていた。

 

すでにこれら活動は自由に行えるが、それに対する知識不足、動機不足や長時間労働による時間不足など、もっと活発になる余地は多分にあるだろう(実際、余暇市場はずっと縮小してきた)。

 

義務教育全年齢化のポイントは2つである。

・これら学ぶ機会に対する全年齢的参加の強制。

・労働よりもこれら学ぶ機会が優先されることを法的に明記

 

一応メリットはたくさんある。

1. 個人を取り巻くコミュニティの確保

2. (1によって)婚姻率上昇による子供の数増加

3. 多様なカリキュラムによる、マインド柔軟化・多様性への理解促進

4. (1と3によって)市民の余暇享受能力の向上

5. (以上の複合効果によって)労働環境の改善

6. (4と5によって)心身の健康状態向上による社会保障費削減

7. (以上の複合効果によって)個々人の生活の奥ゆかしさの向上

 

名前は「一億総ゆとり制」とでもなんでもつければよい。

 

この考えを最初に考えてからだいぶ時間は流れたが、思い出したのは「また学校に通いたい」という社会人の声をいくつか聞いたからである(不純な動機で) 

学校

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