家事育児の分担などクソくらえ

育児の分担などについてのネット上の文章を見ると、これもまた流行り廃りがあるのだなというのを実感する。


「家事育児に理解のある僕は褒められると思っていた(実際は褒められなかったというか怒られた)」


「家事育児の大変さが理解できない夫にどう理解させるか、させた方法」


など。

これらについてとやかく言うつもりはない、というのも家庭によって様々であろうからだ。


しかし、家事育児に関心を示さない男は須らく批難されるべきなのか?というと、同様にこれも一概にならない。なぜならそれはもはや思想や宗教の域の問題だからだ。また場合によってはそのほうが楽な奥さんもいるだろう(トンチンカンな上に積極的なものもまた難儀なものである)


もしまだ結婚していない日本女性ならば、決して「家事育児は男性も協力して当たり前」という風潮を鵜呑みにしてはいけない。これを額面通りに記憶していると長い夫婦生活、あるいは結婚そのものに支障を来してしまうかもしれない。


なぜか。

前提として幸せは日常生活の中にあるのである。人は日常から出られはしない。もし毎日の家事が苦痛であれば、苦痛な人生と言っても言い過ぎではない。


長時間労働が当然のものとなってきている中で無視されがちであるが、そもそも家事は最初から過酷なものである。家の保守、維持、清潔に保つこと、これらは文化的生活を支える基礎でありながら、これを労働とみなした場合には相当な労苦となる。食事ももちろん、衣服やあらゆる品の補修維持もまた然りである。家事をひとりでこなそうとすれば、現代においても1日24時間では足りない。


また育児もである。

これも拷問として見れば相当なものである。最初から大変なのはわかりきっている。(世の男性がどこまで実感として理解しているかはあまり期待できないかもしれないが)


ここまでの話では、生きることそのものが苦痛かのようだが、実際そういうところもあるかもしれない、が実のところそうではない。家事育児は労働ではないからだ。やりたくないことを金銭のためにやらされているのではない。貧乏のために苦労してするものでもない。権力のないために強制されるものでもない。


実際、家事育児そのものが生きる喜びのうちのひとつなのだ。あるいはそこに生きる上での煌めきを見つけなければならぬ。でなければみじめな人生を送ることになるだろう。生きるために家事をするのか、家事をすることが生きることなのか、どちらかに断言はできぬのである。そして夫婦で、それらを前提として、幸福な生活についてよく話し合うべきである。それは決して平日を犠牲にして休日にすべてを忘れるようなものではないだろう。そして心に留めておくべきは、幸福の様式は、その人の教養と経験と心の有り様で変化するものであるということだ。10代には10代の、60代には60代の幸福がある。ひとりの一生に対して、決して不変ではない。


こうしてみると、家事育児を処理されるべきタスクと考え、それを構成員で公平に分配するという考えが、いかにバカげているかわかるだろう。幸福な人生とは遠いところにある。


それをわかった上で旦那に押し付けるべき。押し付けるベッキー