今となればお腹が弱いほうが生きるのが楽だった

私はお腹が弱い。

 

幼稚園〜小学生のころはお漏らし複数回(液状固形物)(?)。

 

中学生以降は表立っての漏らしはないが、このような性質のために行動範囲内のトイレの位置、特性を記憶するに至った。

 

大学生以降になると、気のゆるみから漏らすこと複数回(いずれも車の運転中)。

 

ところがここにきてお腹を壊すことが少し減った。理屈はわからないが、もしかしたら会社をやめてこの1年まともに人と会っていないため、対人ストレスが減ったことが原因かもしれない。

 

ちなみに去年のラジオから聞こえてきた情報によれば、2016年のいて座の私の運勢は何をやってもうなぎのぼり、いけいけどんどん運勢だったらしいのでその効果かもしれない。

 

(ちなみに先ほど聞こえてきた2017年の運勢は4位。モテる、だけ聞き取れたが私は既婚者であった。恨めしい)

 

しかし物事は良い事と悪いことは背中合わせ。上述の人生経歴のため、私は「ケツの穴の小さい男」であったらしい。おなかの調子が少々上向いた関係で、今度は肛

 

 

 

水戸黄門 サウンドトラック2

水戸黄門 サウンドトラック2

 

 

日本の映画ポスターはなぜダサイ問題私見

日本の映画ポスターはなぜダサイ。

 

こんな話題を見つけた。

 

映画ポスターに限らず、商品パッケージでも、町並みでも、日本のものはゴチャゴチャとしてダサイのではないか?という疑問は、案外ほとんどの日本人が持ったことがあるのではないだろうか。(が、今回は映画ポスター以外には触れない。)

 

さらっとネット上を見てみると以下のような意見が見られた。

 

ダサイと売れる

・非映画ファンにアピールすると情報量とアオリが増えダサくなる

・ファン以外へのアピールが必須

・格好良さよりわかりやすさ

 

日本の広告の習性

・もともと日本はデザイン性よりも文字情報重視

・説明過剰のほうが効果的とされている

 

カッコイイ文化がない

・カッコイイを評価できる人間が社内・世間にいない

 

特定企業(人物)のせい

電通がダサイ

・偉いひとがダサイ

・ダサイひとの許可が必要な組織体制

・消費者のセンスを低く見積もっている

 

国民性

・日本人がダサイ

・日本人は感性が鈍い

・日本人は立体的な構図を好まない

・日本人は顔が正面に見えないと不安になる

・日本人はわかりやすいほうが安心する

・日本人はゴチャゴチャが好き

 

映画文化の違い

・映画の身近さの違い

・普段から映画の情報に触れる機会の多寡

・ライフスタイルのなかの映画の位置の違い

・映画ファンの人口が少ない

・高価なので、より詳しく知ってからでないと見ない

・よく知り安心しないと見ない

・海外では、広告がターゲット層以外に届かなくても別に構わない

 

 

などなど。

個々の意見がまったくの無関係ではなく、それぞれ妙につながっていて、確かにややこしい。

 

海外でかっこよく、日本でダサイポスターの作品事例を見つけて、その作品のポスターが作られる背景(海外と日本の違い)を丁寧に追っていけば、より説得力のある仮説にたどり着けるだろうし、またそもそも日本のポスターがダサイのかを論ずることも有意義かもしれない。

 

僕はもちろんそんなことしないが、ひとつ個人的に気になるのは、このポスターダサイ問題の、問題とされる点が実際には2つあるように見えるところだ。

 

ひとつはもちろん、「日本だけダサイ」

 

さらに、ダサイを細かく見ると

・文字が多い

・キャッチコピーの内容がダサイ

・構図がありきたり

・色、人物など様々な形態において情報量が多い

などがある。

 

これはどういうことかというと、消費者に価値があろうと思われる情報を列挙している。「無添加、地域限定、栄養豊富」と同じである。そのために、何が失われているかというと、例えばその作品のもつ世界観や雰囲気、精神性(映画は本来これを楽しむものかもしれない)、つまり作品性を犠牲にして、広告情報が書き込まれているということである。

 

もうひとつは、

「広告で予期される内容と、実際の内容が違う」という点である。

 

内容いかんに関わらず、より大衆受けしそうな顔にして売り出す、ジャンルさえ飛び越えて見せる、得られる感動を先に書いておきながら実際は違う、などなど。これは方々から批判を浴びるのは当然であろう。

 

以上のように、僕がネットを見て感じたポスターダサイ問題における、一番の問題ポイントは「作品の軽視」である。

 

ちなみに僕は映画をあんまり見ないし、そもそも映画ポスターが貼られている現場を見たことがない(気付いたことがない?)。しかしああいう文字でひたすら煽るタイプの広告は非常に不快になるので、どちらかといえば僕は「日本のポスターはダサイから改めろ派」と言えるかもしれない。(公共の場は広告含め美しくあってほしい)

 

個人的には、ポスターもパッケージも、映画という作品の一部であるという観点のもと作られ、広告含めた関連グッズのすべてが映画製作者の描いた作品の理念に基づいて設計されることが、合理的であるように見える。その合理性に従えば、大衆向け映画は現状のママが合理的かもしれない。そもそも良い映画というのはすべてがすべて大衆受けするものではない。

 

また、作品軽視の広告で客が釣れたとしても、映画業界の衰退を招くだろう。

 

しかし、軽視している主体は誰かというと実は大衆なのである。

 

映画カルチャーを引っ張る層と、映画業界を金銭的に支える層が同一であれば、こういった問題は起きたか。仮に起きなかったと考えると、日本における年齢と所得の偏り方、あるいは長時間労働に起因しているのかもしれない。

 

 

旭酒造 獺祭 (だっさい) 純米大吟醸 磨き50 720ml
 

 

ラーメン

僕はあまりラーメンが好きではない
が、安くて早くてそこそこお腹いっぱいになるので食べることも少なくはない。
 
世の中は広い。
このラーメンひとつにもいろいろな楽しみ方があるようで、周りのお客さんが麺の固さを注文するのである。
 
よくわからない表現もあったので調べてみると
 
やわらかめ
普通
硬め
やや硬め
バリ硬
針金
湯気通し
粉落とし
乾麺
小麦
 
 
と、こんなにあるらしい。
 
内容はよくわからないが、ひとによって好みがあるのだろう。
(字面から伝わるものはある)
 
とあるラーメン屋で、客の老婆がツウな注文をしていたのを聞いたことがある。
 
婆:ラーメン、粉落としで、湯気通しまでいかないくらいで、ありゃ固すぎるよ
 
 
なんでもそうである。
こだわり、と呼ぶには抵抗があるが、人生を豊かにするのはいつもほんの少しの飾り気だったり洒落っ気だったりするのだ。ぼくはこのことを強調したい。
 
この老婆も普段どんなにいいものを食べているかわからないが、今日はラーメンに少しの注文をつけて老い先短い人生にタンポポを添えているのだ。
 
店員が店長に老婆の注文を伝える。
「ラーメン、かため」と言ったのを僕はしっかり聞いた。
 
しかしもちろん重要なことではない。
老婆はかためのラーメンを食べて満足して帰るのだ。
 
世の普通に従っていては、決して出会うことのない「生活の豊かさ」について考えた。

給料泥棒とどこにも通用しない人材

現在の日本の商習慣上、職務遂行能力のない新卒一括採用・終身雇用が一般的である以上、「売上貢献のない新人は給料泥棒」などというのはいわれなき中傷・洗脳行為であって、新人の人格を著しく傷つける言動であるから、こんな考えの人間はただちにその愚考を改めるべきである。

 

黒字倒産」という言葉がある通り、企業の存続に必要なのは売り上げだけではない。適切な管理、後継育成などを含めた「組織運営」が不可欠である。新卒採用はその一環として行なわれる限り、新人の給料は組織が必要と認めた運営費であって、決して恩着せがましいおこぼれではない。

 

というのも、「自分が給料泥棒なのではないか」と落ち込む若者に会ったからである。上司や世間の理論に惑わされ、精神的に弱まった状態で、職務遂行上有意義な広い視野と成長意欲が保てるとは思わない。若者に至っては、そのようなことは決してないと胸をはって職務に邁進するべきである。

 

また、「お前なんかここをやめたら、どこも通用せずに人生が終わる」と言われたという若者にも会った。そんな妄言を吐く人間が実在するのか、にわかには信じがたかったが、実際に目撃してしまった。

 

このセリフは言い換えると「君にはこんなキャリアの積み方が適切で、この会社でしかそれができない、やめれば生活に困窮する」ということであろうが、まったくそんなことはない。そういう発想を自然にできる上司のもとで精神を摩耗しながら働いていては、キャリアの展望など、望むべくもない。

 

若者は「能力のない自分を、ここだけは雇ってくれる」と思い込むらしい。が、まともな人間は、仕事ができないという理由で新人を罵倒したりしない。精神的負担が多いと思ったら迷わず転職するべきである。

 

 

関係ないが、僕の持論は「部下の出来は上司の責任」である。

 

冒頭に述べたように、日本では新卒一括採用・終身雇用がまだ一般的である以上、「部下」と言えば「上司の育てた新人・元新人」である。これに対して職務遂行能力が低いとなれば原因は上司や会社にあることになる。しかし一般世論としてそのようなことは言及されにくい。

 

・上司は単なる職務階級だけでなく人間的にも格上という押しつけ

・育てる意識・コストの不足

・新人育成法の育成・上司に対する教育の欠如

・それでもうまく立ち回る「社畜」的人間の多さ

 

結果として有能な人材はどこかで勝手に育ってくる雑草かのような扱いになり、手のかかる人材はたいした教育もされず無能扱いである。そのような企業はすでに職能を磨いてきた中途の採用を行なうべきだと思うが、なかなかなされない。

 

僕が知っている会社が中途を行なわない理由は3つ。

・高い給料を払いたくないために、有能な人材が集まらない。

・有能な人材が怖い。

・若くない人間が怖い。

 

これはいかん。

 

大学時代の就職活動をそつなくこなし、会社員生活を楽しく過ごしている人間はそれでいいだろう。

しかし、就職活動に疑問を持ってしまったり、商習慣に違和感を感じてしまったり、人生に占める仕事の在り方を真面目に考えてしまったりした人間に対しては、過酷な社会である。

 

この過酷さも日本の貧しさの原因のひとつである。

 

 

 

義務教育の全年齢化「一億総ゆとり制」

 

学生の頃、義務教育の全年齢化を考えたことがある。

あるいは部活のように趣味や地域コミュニティへの複数参加の義務化などである。

 

生きてきた人生と無関係の学問を深く学ぶことや、世界の最新動向、あるいは芸術や余暇の楽しみ方、伝統的な祭礼・技能、他職種についてなどを学んだり体験することは、「現代においてはこれを半ば強制的に人生に組み込むことでの社会的利益は大きい」のではないかということだ。

 

というのも個人的には、市民の哲学と芸術への親しみの深化が社会的豊かさへ寄与すると考えていたからだ。そしてこれからは「中高年への教育」が重要かつ必要になると思っていた。

 

すでにこれら活動は自由に行えるが、それに対する知識不足、動機不足や長時間労働による時間不足など、もっと活発になる余地は多分にあるだろう(実際、余暇市場はずっと縮小してきた)。

 

義務教育全年齢化のポイントは2つである。

・これら学ぶ機会に対する全年齢的参加の強制。

・労働よりもこれら学ぶ機会が優先されることを法的に明記

 

一応メリットはたくさんある。

1. 個人を取り巻くコミュニティの確保

2. (1によって)婚姻率上昇による子供の数増加

3. 多様なカリキュラムによる、マインド柔軟化・多様性への理解促進

4. (1と3によって)市民の余暇享受能力の向上

5. (以上の複合効果によって)労働環境の改善

6. (4と5によって)心身の健康状態向上による社会保障費削減

7. (以上の複合効果によって)個々人の生活の奥ゆかしさの向上

 

名前は「一億総ゆとり制」とでもなんでもつければよい。

 

この考えを最初に考えてからだいぶ時間は流れたが、思い出したのは「また学校に通いたい」という社会人の声をいくつか聞いたからである(不純な動機で) 

学校

学校

 

 

腰巻きビル雑感。

「腰巻きビル」という言葉をはじめて知った。

これに関してネット上ではいろいろな意見が紛糾しているようである。

 

街の景観については美しくあるべきである。

それは人間生活の豊かさに直結している。

日本では代々「家の外」たる「公」について、個々人が労力や資財を投入して美化・補修・維持をしようとする意識はほとんど持ち合わせてこなかった。これは個人的な肌感覚での感想であるが、おそらく多くの人が認めるところであると思う。

 

ヨーロッパと日本の生活感覚上の「家の外」と「家の内」の境界線のありかの違いについて、和辻哲郎が風土のなかで言及していた。生活と共同体の防衛の成り立ちから、ヨーロッパにおける家の内外の境界線は国境まで拡大させられ、日本においては各家の玄関に厳然とした境界線がしかれているというのだ。ヨーロッパにおける個々人の鍵のついた部屋という境界線が、日本においては屋内に存在しない。そして日本における家の内という境界線が、ヨーロッパでは城壁でかこまれた内にまで同様に解釈できるという。だいたいこんな感じだった(?)。

 

日本においては家の外のことは自分のことではないのである。

そのため、街の景観、例えば、道路、川、公園、建物、つまり家を外から眺める視点のあらゆるものに対して注意が払われない。それらはもっぱら実用上の要請に対して必要最低限の資源と労力によって維持される。

 

「実用上の要請」や「経済的必要」に「美的価値や機能」は含まれない。現代日本では「美」は無駄で贅沢で謎の代物であるのだ。国所有のものがかっこよくて美しければ、それは金の無駄遣いなのである。なぜ現代日本が「実用的な物」に「美」を認めなくなったのか、はよくわからない。高度経済成長の恩恵のもと、実利主義や俗物主義とも言える思想が蔓延した結果かもしれない。

 

このように現代日本においては、「家の外は関心外」、「実用的な物に美は無駄なもの」という意識がある。そのため「家の外の景観を美しくする」行為は非常に難しいものとなっている。そのために日本における景観の向上や保持については、非常に低いレベルにあると言っていいだろう。

 

件の腰巻きビルに関しても、様々な要請のもとに計画され、そのために美が犠牲となる、あるいは考慮すらされていない、そういう結果であろう。伝統的建築物の上にガラスのビルが突き刺さっている様を、「仕方がないと容認できる」ことが現代日本の思想をよく表している。これは、同時に「その程度のものに」という市民の圧力でもある。

 

美や、もっと手短に「景観」、「外観」といったものの機能や性質、人間生活の豊かさとの関係についての、知識、理解、体験を日本全体で深めていくことでしか、こういった事例を改善していくことは、現実的には不可能なのであると思う。

 

美的(BITEKI) 2016年 06 月号 [雑誌]

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4月の新宿駅の美人率について

ここ1ヶ月ほど、通勤をした。

片道1時間以上である。

もちろん満員電車に揺られてである。

これは人間社会においてあらゆる損失でしかない。

 

ところが自分がいざその身になると、通勤自体に意義を見出さずにはいられない。これは不幸なことであるが、同時にこの極めて特殊な状況下では、その特殊さもすでにひとつの娯楽である。

 

いつもは本を読むのだが、何回か「美人率」を計算するという遊びを楽しんだ。

 

2016年4月、朝の新宿駅で水木金の3日間実施した。

 普通に通勤しながら、すれ違う人の総数と、そのうちに含まれる美人の数から、美人率を計算する。といういたってシンプルなものである。ただ乗り換えのために歩いている間にも、すれ違う人間の数は1000を超える。これは、計算される美人率も精度があがっていくことが期待できる。

 

4月といえば、1年のうちで最も通勤人口の平均年齢が若くなる時期である。そのために美人率は少しブーストされている可能性があるが、それでも結果はだいたい5パーセントに落ち着いた。これは20人にひとりという値である。かなり美人の定義をゆるく設定したにも関わらずこの値であった。これは、小学校、中学校、高校、大学と、美人はクラスにひとりいるかいないかという経験値とも近しい値である。

 

この5パーセントがどれくらいかというと、

例えばざっと調べてみると(正確さは保証できない)、

・全人口に対するLGBTの数

・日本人男性のうち、色盲を持っている数

・給与所得者のうち、年間給与が800万を超える人数

などが該当するらしい。

だからどうということではない。

 

この美人率が変動する要因として

・観測者の好み、美人の定義

・時期、場所、時間

などが考えられる。

つまり指標としてはかなりゆるいものである。

 

しかし即ち無意義ということにはならない。

なぜなら、おそらく男性がなんとなく経験値的に感じている美人率は、どのような計測方法でも似た値に落ち着くことが予想されるからだ。

 

「美人は非常に少ない。だいたい20人にひとりくらい」

 

きっと多くの男性がこう思っている。

これを証明するには全国の特派員の報告を待つしかない。

君の報告を心待ちにしている。

 

(実際は待ってません)

 

 

 

美人の正体 外見的魅力をめぐる心理学

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